人生は一度きりだと、子どもの頃からなんとなく知っていた。でも、その本当の意味に気づくまで、僕は20年かかった。どうしても、20年生きてみないと気づけなかった。
気づくきっかけは人それぞれだと思う。大きな失敗や挫折、人との出会い。僕の場合は身近な人の死だった。家族でも友人でも、死は人の心に大きな影響を与える。
大学入学まで
小学校から中学校にかけては、他の子どもより少し変わっていて、しかし、悪目立ちすることなく人並みに過ごした。自分もいつか大人になるのだろうから、一応勉強しておこう。この頃、人生は他人事だった。なぜ他人事になってしまったのか、今振り返れば主体性がなかった。主体性がなければ、人生は他人事のままでいられる。みんながそうしているから、親からすすめられたからと、ただなんとなく人生を生きていた。時々きつい思いをしたり、楽しいことがあったり、それなりに楽しい人生だけど、なんだか違う世界で起きている話のよう。大人になっても主体性を持てない人は意外にも多いかも知れない。
話を戻して、僕は高校生になり、自分の進路を真剣に考えるようになった。税理士はどうだろう、社会に興味がある自分には経済学部が向いているかも知れない。それでも、自分の20年先はどこか現実味のない映画の世界という感覚だった。大学受験もまずまずの結果で、日本のどこにでもいる青年だった僕は、一度きりの人生を「自分のために生きる」と強く決意する必要に迫られることがなかった。この頃の僕は、人間性は薄情だし、自分は気ままに生きていけばいいと思っていた。決して、薄っぺらい人間ではなかったが、当時思っているほど中身の詰まってなかったと思う。
母親の死
大学生になった年の冬、50になった母親がガンを患った。ガンは治る時代になったのだから、そのうち母親も良くなるだろう。甘く考えていた僕は、年明け、もうあまり長くないと聞かされてさらに動揺した。家族が大病をするとこんなにも心細いものか。何か悪いことをしたわけではない母親が、なぜ50で人生を終えなければいけないのか。
僕が20歳になった年の夏、母親は亡くなった。遠くの大学でテストを受けていた僕は、最期に立ち会うことができなかった。1か月前に帰省しなかったことを後悔した。
間違いなく、人生は一度きりだった。まだやりたいことがたくさんあったはずの母親の人生はここで終わり。もっと感謝を伝えたかったし、成長した自分を母親に見て欲しかった。母親はなんて惜しいところで人生を終えてしまったのか。人生は一度きりだった。
当然、僕の人生も一度しかない。母親の年齢に追いつくまでに、好きなことをたらふくやれるだろうか。人生は長いからって言ってたら始まらないこともたくさんあるんじゃないかと焦りを覚えた。
その後の人生
母親の死を通じて感じたのは、人の愛情だった。家族でもない人が精一杯手助けしてくれる。親戚は母親代わりと言わんばかりに世話を焼いてくれる。僕は本当の意味での優しさを教えてもらった。一人暮らしの僕に届く仕送りのダンボールを見るたびに、自分自身は人に対してどう接しているのかを考えさせられた。一度しかない人生を、もう少し素直に生きたい。
どうせ人生が一度きりなら、誰かと分かり合えた気分を味わった方が良いと思った。人との接し方を振り返れば、僕は素直じゃなかった。自分の心の底から湧き上がる声を他人にぶつけたことがなかった。何を遠慮していたのか、素直に人懐っこく生きれば、この広い世界には分かり合える人が一定数いる。この頃から、人付き合いが一段と増えて、周りには助けてくれる人、助けを求めてくる人、心を許して一緒に笑ってくれる人が集まってきた。
人間関係だけじゃなく、刺激的な体験や未だ見ぬ世界を、僕はずっと避けて生きてきた。失敗を恐れては不安になり、決して楽をしてきたわけではないが、もう一歩勇気を振り絞った冒険をして来なかった。きっと、冒険するチャンスを何度も逃して生きてきたと思う。そんな生き方で突然死んでしまうのは勿体無い。
ここまで書いておきながら、やはり焦ることはないと思う。やるべきことは2,3年、いやもっとかけてもいい。すぐに達成できないことなら時間をかけよう。でも、スタートは今しかない。だって、人生は一度きりなのだから。
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