
中学生の頃を思い返すと、必ず部活のことを思い出す。野球部に所属していた僕は毎日部活、土日もグラウンドに出て練習。砂埃で顔を練習着を汚して帰宅。友達には囲まれたし、辛いことがたくさんあって、それを乗り越えるための訓練にはなったかな…と思うけど、やはり腑に落ちない。中学校の2年半をそれだけに費やすほどの価値があったのだろうかと。
冷静に振り返ると、試合で勝ちにいくような効率のいい練習をしていたわけでもないし、もし試合に勝つことが目標じゃないとしても、膨大な時間を費やしてまで重要なことが行われていたのかというとこれまた疑問。
部活を根本的に否定するつもりはないけど、時代に合ってないところもあるような気がする。働きすぎな日本社会に通じる気がする。
とにかく練習時間が長い
漫然と長い練習時間を過ごしていた。僕が最も言いたいことは、全国優勝を目指しているわけでもないのに、長い練習時間が必要なのかということ。部活動そのものが悪いわけではなく、時間の使い方に問題がある。
僕たちは2年半もの間、部活に多くの時間を使ったにも関わらず、チームとして仕上がってはいなかった。そもそも、優勝を狙っているわけでもない僕たちが、きついのはともかく楽しくもない練習をするのは誰が望んだことなのか。部員の誰もが、もう少し楽しくできないかと思っていた。
楽しくない、長い練習時間が生じるのは、終了時間が一律に設定されているからだ。
部活の構造的問題点は、決められた時間通りに練習をする、いや、時間いっぱい練習することが目的になっていることだ。18時30分まで練習をするという目的のために、狭いグラウンドで必要かどうかも分からない練習をすることになる。なんだか会社で聞いたことありそうな話だ。また、ゲーム感覚で身体動かして終わりの日があってもいいと思うし、ダラダラとキャッチボールを続けるよりも有用な時間の使い方はある。
練習時間が長いことの影響を受けるのは生徒だけではない。顧問の教員だって、放課後や週末の時間を割いて練習に参加する。授業の準備に追われる教員は暇ではない。この問題は教員への負担にも関わる。
部活に参加しないと友達ができにくい
部活に入ることが前提となっていて、部活に入らなければ友達ができにくい。客観的に考えると妙な話だ。部活に入らず、自分の好きなことに没頭することに対して高い壁がある。好きなことをするだけではなく、部活以外の生徒同士の交流など、部活では得られない経験は多い。
部活に興味がない人、部活に馴染めなかった人達はまるで関係ないかのような制度設計。そして、同好会のような気軽なグループは学校側から認められにくい。みんなが通る道からあぶれた生徒の居場所はどこなのか。
独特の高揚感がある
試合に出たり、仲間と分かり合えたり、部活ならそういう貴重な経験に出会いやすい。もちろん全員が味わえるものではないけど、部活でなければ知り得なかったものはあると思う。
とはいえ、部活制度には一定の限界があると僕は考えている。そこで、以下の提案をしてみる。これらは、部活が持つ全ての問題点を解決するわけではないが、もっと
提案1 部活の時間を流動的に設定する
平日はもちろん、土日だって休みたい日はある。僕は土日に休んだ記憶がほとんどない。めいいっぱい体を動かして、あとはゲームするだけだった。隔週で土日のいずれかは休日にするとか、土日のいずれかは部員が考える練習をするとか。平日は全面使える日以外は体づくりメインで短めに終わってもいい。もっと、流動的に時間設定ができれば、部活だけに打ち込んだ味気なさは解消されないだろうか。提案なので、これが正解ということではないのだけど。
提案2 グラウンド(体育館)解放日
どの部活の生徒もグランドを使える日、陸上競技場みたいに解放する日があっていいと思う。毎日どこかの部が使う場所を決めて練習するのは、一見無駄がないようで、余裕や遊びがなくて面白味に欠ける生活になってしまう。部活の延長で走る人がいてもいいし、遊びの延長で体を動かす人がいてもいい。大人もそうだけど、無駄がない状況はむしろ無駄を生み出すことがある。遊びだって、真剣にやるから意味がある。
提案3 部活以外で夢中になれる、興味の対象を見つける時間
部活以外での生徒同士の接点や、興味を持つ分野を発見するイベントがもっとあってもいいと思う。部活一筋な学校生活だけでなく、文学や芸術に触れるのもいいし、友達とボードゲームをするのもいい。小学校にあった交流の時間って、学年性別ごちゃ混ぜだったこともあって、クラスの中でいけてないキャラの子がいきいきしていたりする。
生徒皆入部という部活前提の在り方って、人それぞれの生き方という時代にはそぐわないような気もするし、一度立ち止まって考えることもあっていいと思う。
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